神奈川台場の歴史
坂本龍馬の師、勝海舟。伝説の神奈川台場は、彼の設計により築造されました。
幕府の命により神奈川宿付近の海岸警備を担当していた伊予松山藩は、横浜が開港した1859年、神奈川猟師町の海面に砲台場を築造する工事に着手しました。
設計を行ったのは、幕末の時代にあって海外の事情や海防にも通じていた勝海舟でした。
本格的な石積みを土台とする、独特の形状を持つ神奈川台場は、藩財政約1年分の経費を投じ、横浜開港の翌年1860年に見事完成したのです。
この伝説の神奈川台場は、一度も実戦に使用されず、諸外国の外交団や貴賓が港に到着した際に祝砲を放つ台場はとして活用され、まさにお祝いの象徴の台場となったのです。
明治32年、その役割を終えた伝説の神奈川台場は、近隣の埋め立てなどにより現在ではその姿を確認することはできません。しかし、開港当時のおよそ150年前の姿そのままに、ほぼ完璧な形で地下に埋蔵されており、勝海舟が生きた時代の貴重な遺構として、現在注目を集めています。
伝説の神奈川台場は、伊予松山藩により築造されました。
松山出身の画家 八木彩霞が描いた「神奈川台場の図」が、
愛媛県指定有形文化財 萬翠荘に残されています。
「神奈川台場の図」八木彩霞
(明治19年~昭和44年)松山市出身。
横浜で小学校教員として勤務するかたわら、
ドイツ人画家に師事。
勝つための極意
- 大胆に無用意に
- 世に処するには、どんな難事に出会つても臆病ではいけない。さあ何程でも来い。おれの身体がねぢれるならば、ねぢつて見ろ、といふ了簡で、事を捌いて行く時は、難事が到達すればするほど面白味が付いて来て、物事は雑作もなく落着してしまふものだ。なんでも大胆に、無用意に、打ちかゝらなければいけない。どうせうか、かうせうか、と思案してかゝる日には、もういけない。むつかしからうが、易からうが、そんな事は考へずに、いはゆる無我といふ真境に入つて無用意で打ちかゝつて行くのだ。もし成功しなければ、成功するところまで働き続けて、決して間断があつてはいけない。世の中の人は、たいてい事業の成功するまでに、はや根気が尽きて疲れてしまふから、大事が出来ないのだ。」(勝海舟)
- 勝敗を意識せず立ち向かう
- 「一たび勝たんとするに急なる、忽ち頭熱し胸跳り、措置かへつて顚倒し、進退度を失するの患を免れることは出来ない。もし或は遁れて防禦の地位に立たんと欲す、忽ち退縮の気を生じ来りて相手に乗ぜらせる。事、大小となくこの規則に支配せられるのだ。おれはこの人間精神上の作用を悟了して、いつもまづ勝敗の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した。」(勝海舟)
出典:「氷川清話」より
坂本龍馬と勝海舟
坂本龍馬は、勝海舟を師と仰いでいました。
そのことは龍馬の手紙にも記されています。
- 龍馬の手紙
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今にては日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。
坂本乙女宛 文久三年(1863)三月二十日 龍馬の書簡より (今では、日本第一の人物勝麟太郎殿という人の弟子になり、日々兼がね思い付いていたところに精を出しております。)此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候て、先きゃくぶんのようなものになり申候。
坂本乙女宛 文久三年(1863)五月一七日 龍馬の書簡より (この頃は、天下一の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことの外かわいがられて、客分のようなものになりました。)
- 勝海舟 氷川清話より
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「坂本龍馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。
その時おれは笑つて受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があつて、よい男だつたよ。」(勝海舟)「塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものも沢山居たが、坂本龍馬がその塾頭であつた。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になつて居るものがずいぶんあるヨ。」(勝海舟)
現在の神奈川台場
約40年に渡り祝砲を放ち続けた神奈川台場は、外国人居留地が廃止された1899年(明治32年)、その役割を終えます。
その後、埋めたてにより姿を消した神奈川台場ですが、近年の調査で、ほぼそのままの形で地中に現存していることが明らかになりました。
勝海舟が設計した、近代横浜のルーツとも言える貴重な遺構です。
日本が国際化を果たした際の重要な史跡としても、後世に語り継いでいくべきものと考えています。